例えば、オリンピックを観ていて、
解説者が言う。

あの体幹ができれば、
日本人選手ももっと活躍できる。

本当にそうなのか?

体幹ができてるといわれる外国人選手は、
体幹トレーニングなんてやってないんだよ。
残念ながら。

天性のものなのか、
ほかのトレーニングからできたものなのか、
とにかく、体幹をつくったんじゃない。
体幹は、できたもの。

例えば、ゴルフ。

誰もが口にするアドバイス。

肘を伸ばせ。
脇を閉めろ。

そこを目的にしていいのか?

トッププロといわれるような人たちに、
そんなことを意識している人はいないんだよ。

きれいなスイングを心がけた結果なんだ。

肘は、伸びるし、
脇は、締まるもの。

人というのは、目に見えるところ、
それも小さなところから触りたがるものかも知れない。

手段と目的を、見誤る。

プロセスと結果を、勘違いする。

例えば、宗教。

そこに救いを求め、
さらに苦しむことがある。
「汝の敵を愛せよ」と教えられ、
自分にとっての嫌いな存在のことを
「好きにならなければならない」
と、思おうとする。

そうはなれない自分を責める。

人を好きになるなんてことは、
感情、Feelingであり、
状態、Conditionであって、
動作、Actionじゃないんだから、
やろうと思ってできることじゃない。

そもそも、
好きになろうとして好きになんてなれないし、
嫌いになろうとして嫌いになったんじゃない。
気がついたときにはすでに、
好き、または嫌いになってしまってるもの。

宗教そのものがいけないんじゃなくて、
その人の伝え方がまずかったんだろうけど。

好きになろうと、できない努力をするよりも、
その執着を離れることが大事。

人を好きになるのも嫌いになるのも、
本来は自由なこと。

いけないいけないと思えば思うほど、
そこから離れられなくなっていく。

それが、執着というもの。

どうでもよくなったら、嫌いな存在なんて気にならなくなる。

そして、自分が本当に変われたとき、
その人を好きにはなれなくとも、
大切な人だと思えるようにはなる。

経験から、そう感じています。

とらわれないことに、とらわれてはいないだろうか。

目に映る現象にとらわれるあまり、
本質を見失うことのないように。

見えるものがすべてじゃない。

見えなくても、そこにあるものがある。

感じることも大切なこと。

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写真は、ファシリテーション合宿の日、
早朝の須磨海岸