「面」が「倒」れる、

と書いて、面倒。

面倒とは、見苦しいこと。

転じて、手間のかかることを言う。

煩わしさが増すことで、
“面倒くさい”になる。

「大事なことは、たいてい面倒くさい」

とは、アニメ映画のスタジオジブリ、
宮崎駿監督が口ぐせのように言われることだとか。

ジブリ作品といえば、
パッとは目に入らないような細部にまでこだわる。

そんな細かいとろにまで力を注ぐからこそ、
あれだけのヒット作になっていくようだ。

「なんのために?」
というような理屈で考えるより、
ただ「大事だから」というだけで取り組む。

その姿勢からくる微妙な感覚が、
妙にリアリティを持ち、
きっと人の心に響いてくるのだと思う。

現代社会においては、
医療や教育といった本当に大事なことまでもが商取引化されてしまった。

そんな時代背景では、
面倒くさいことが敬遠されてしまうのも、
ある意味、無理のないことかも知れない。

考えてみれば、
医療にしても教育にしても、
本来ならば家庭に基本的な役割があるはず。

親が面倒くさがってしまって、
子どもにきちんと伝えない。

そこからでは、
子どもは面倒くさがって何もできなくなってしまって当然かも。

実際に、面倒くさいことをやりたがらない子どもが増えているらしい。

2013年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に
「和食」が登録された。

その際の評価ポイントは、
「和食」が自然を尊重する日本人の繊細な心を表現したものであり、
伝統的な社会慣習として世代を超えて受け継がれているといったこと。

日本人の感覚では、
たとえば「においを嗅ぐ」というときにも、
「匂い」というのか「臭い」というのか、

また「香り」というのか「薫り」というのかといった、

嗅ぎ分けることのできるものを日本人は持っているはず。

こうした感覚を養うための教育は、

例えば、家庭で料理をともにするなどして
育つもの。

イノチを育むことの大切さは、
面倒くさいことから養われる。

感謝するとき、
謝罪するとき、

拝むとき、
祈るとき…。

大事なときには手を合わせる。

それは、当たり前のことのはず。

面倒くさがらずにいたいもの。